2015年




ーーー9/1−−− 日本のブービー賞 


 
公民館主催のマレットゴルフ大会を計画していたとき、ブービー賞はどの順位に与えるのかという話になった。私は最下位から二番目がブービーで、最下位がブービーメーカーだと理解していたが、ブービーが最下位だと言う人がいた。そこで、ちょっと調べてみた。

 ネット辞典で見ると、ブービーは「最下位または最下位から二番目」とあった。これでは答にならない。さらに調べてみるとなかなか面白い事が分かった。

 英語の本来の意味は「まぬけ」で、最下位を意味する。競技会には、ブービー賞など無いか、あっても最下位に、からかい半分の粗末な物を与えるらしい。日本のゴルフ界でも、当初は最下位に与えられていた。ところが、優勝商品に匹敵するような豪華な品物を、ブービー賞として与える風潮が広まった。そうすると、順位の低い者が、わざと大叩きして、ブービー賞を狙うようになった。そういう事では、競技としての健全性が阻害される。そこで、意図的には狙い難い、下から二番目をブービー賞とするようになった。最下位は、ブービーを確定する者という意味でブービーメーカーと呼び、簡素な賞品を与えるのが、現在の一般的なやり方とのこと。

 最下位の者にも賞を与えるというのが、和気藹々を好む日本社会らしくて面白い。しかも豪華な品物を用意すると言うのだから、念が入っている。賞品が豪華なら、わざと下手なプレーをして狙うというのも、人の性か。それを防ぐために、ブービー賞を下から二番目に設定し直したというのも、気が利いた工夫だと言えよう。さらに、やはり最下位にも何がしかの賞品を渡すと言うのだから、ある意味で一貫している。

 事の経緯は、一見スマートで行き届いている。「そこまで?」という気も、しないではないが。




ーーー9/8−−− 工夫をする仕事


 
優れた仕事をする職人を紹介する番組に、巨大なタンカーの船首の微妙な曲面を、鉄板を曲げて作り出す職人が登場していた。バーナーで加熱し、水をかけて冷やすだけで、ぶ厚い鉄板を曲げる撓鉄 (ぎょうてつ)という加工法。その職人は特に高度な技を持っていて、業界では世界的に評価されているそうだ。この道数十年のベテランである。手馴れた作業のはずだが、毎回工夫をするという。特に、前例が無いような形状の場合は、様々な工夫を駆使して立ち向かうと。

 私は12年間会社勤めをしたが、仕事で工夫をしたことなど一度も無い。そう言うと、何も工夫をしないグータラ社員だと思われそうだが、職場の同僚を見渡しても、似たようなものだったと思う。たまたまその職場の仕事内容がそうだったのか。ともかく、多少工夫をする場面があるとすれば、他の職場に仕事の依頼をする際に、割り込みでも早く処理してもらうなどの、立ち回りのテクニックくらいであった。

 技術系企業のデスクワークは、誰がやっても同じ結果にならなければいけない。そのために、マニュアルが整備されているくらいだ。そういう分野では、従業員一人ひとりが工夫をする余地など無い。既に仕事の手順が確立されているからだ。逆に、入社数年後の社員が、どしどし工夫や改善を提案できるような事では、不安を抱いてしまう。専門性の高い業種ほど、この傾向は強いと思われる。

 企業の中で働くには、それなりの能力が求められるが、個性に類するものは必要とされない。例えば、技術系社員でも英語の読み書きの能力が求められるが、読む人を感動させるような文章力が必要とされる事はない。また、パソコンを使って販促資料を作成する場合、見栄え良く作る必要はあるが、それは見る側にとっての事である。いくら当人が張り切っても、芸術作品を作るようなこだわりや思い入れは切り捨てられる。要するに、必要十分な能力のみが評価され、それから外れる能力は、業務のバランスを乱すものとして、むしろ敬遠されるのである。

 現在の私の仕事は、毎日が工夫の繰り返しである。加工に関する工夫、デザインに関する工夫、そして売り込みに関する工夫、等々。工夫が功を奏する場合も有れば、空振りに終わる場合もある。しかし、失敗を恐れずに取り組むことが、工夫の第一歩である。工夫したことが上手く行った場合の喜びは大きい。その喜びが、日々の仕事の支えだとも思えるくらいだ。

 個人的な技能が求められる仕事、つまり職人仕事に於いては、日々の工夫が欠かせない。一方、集団としての技術力を中心に進められる仕事では、品質や工程に関する工夫は一部の専門の部署の仕事でしかない。大多数の社員に求められるのは、仕事を遂行する上での正確さと早さだけである。

 私の気持としては、自分で工夫をし、その成果を生かすような仕事の方にやりがいを感じる。しかし、そういう仕事は、ごく一部の恵まれた人を除き、生活をしていく手段としてはなかなか難しい。個人が仕事に対して感じる達成感や満足感よりも、企業としての能率効率が優先される。そんな事が、ごく当たり前になってしまったのが、現代社会ではなかろうか。
 



ーーー9/15−−− 精密秤


 
仕事で使う接着剤は、何種類もあるが、よく使うものの一つに、二液混合型エポキシ接着剤がある。二種類の液が別々のチューブに入っており、それらを等量出し混合して使うタイプ。特徴は、接着強度が大きい、硬化時間が長い(種類によって異なる)、耐水性がある、木材の膨張を招かない、潤滑性がある、固化する際の収縮が少ない、など。これらの特徴を利用すれば、水溶性のボンドでは難しい接着加工も可能になる。

 使う上で問題なのは、同じ量を正確に混合することである。私は従来、チューブから出した液の量を見比べて、ほぼ同じと判断した時点で混合をしてきた。つまり目視による判断である。しかしこれでは、正確さに疑問が残る。だいぶ前になるが、混合する際にどれくらいの誤差が許されるのか、メーカーの相談室に電話をして聞いたことがある。担当者の返答は、確か3パーセント以内だったと記憶している。そして、遊びならいざ知らず、仕事で使うなら、厳密に軽量をして、誤差範囲内に納めなければダメだと、強い口調で言われた。片方が余分に混ざると、その分は固化に役立たないまま内在することになるので、強度の低下を招くのだと。その理屈は納得できた。

 しかし現実には、仮に0.5グラムを使うとすれば、その3パーセントは0.015グラムである。そのように微細な計量のできる秤が、当時は簡単に手に入らなかった。それで、計量は諦め、目視による混合を続けてきた。混合して使い、余った接着剤はそのまま放置しておくと固まる。その固まり具合で、正しい混合だったかを確認するのだが、ひどい結果となる事は無かった。だから、目視で問題無いと思ってきた。もっとも、板矧ぎなど、大きな強度を求められる接着には使わなかったので、ほどほどの接着力が有れば可という判断もあったのだが。

 それでも、いささかの不安は時折感じられた。片方のチューブを使い切ったのに、相手のチューブにはまだ液が残っているなどという事があった。いちおう固まった接着剤でも、表面がなんとなくベタベタとした触感である事もあった。接着力不足で問題が生じたことは無かったが、等量混合という条件に関しては、正確に達成できたかどうか、疑問がつきまとった。

 一定の周期でぶり返す不安感が、またやってきた3ヶ月ほど前、ネットで精密秤を調べてみた。そうしたら、0.01グラムまで計量できるデジタル秤が、お手ごろな価格で手に入ることが分かった。時代は変わったのである。どうやら、主婦が家庭でお菓子などを作る際、その材料を計るために使う需要があるらしい。そういう流れが、低価格商品の普及に繋がっているのかも知れない。

 用途に見合った機種を探し出して、購入した。もちろん風袋引き機能が付いているから、直読で計量できる。これは便利で、心強い道具だ。

 実際に計ってみると、目で見て等量と感じても、けっこう差があることが判明した。従来の方法を再現してみると、いつも同じ方のチューブの液が重量オーバーする。以前から気になっていたのだが、二つの液は、粘度に差があるためか、チューブから押し出して板の上に並べたときに、高さが違う。だから、上から見て同じ量に見えても、横から見ると高さのぶんだけ差がある。計量してみると、その差は3パーセントなどという小さなものでは無かった。

 先に述べたように、私の場合、この接着剤は大きな接着力を必要とする場面では使わない。だから、簡便な目視による方法でも、実際には問題が無いだろう。しかし、いったんデジタル秤による計量に手を染めると、多少の煩わしさにも拘わらず、もうこの方法しかありえないという気になった。

 不必要な正確さを追い求めるのは無意味かも知れないが、より正確なものがあるならそれにすがるというのも、また人の性ではあるまいか。
 




ーーー9/22−−− 針金の縛り方


 
毎年9月に、地元の神社の例大祭が行われる。その祭りの目玉は、「お船」と呼ばれる山車で、それに子供囃子が乗り込み、公民館から神社まで住民の手で引かれて行く。夕暮れ迫る田園風景の中を、笛や太鼓を奏でながら、しずしずと進むお船の姿は、まことに伝統的な情緒を感じさせる。

 右の画像は、飾りを施す前のお船である。主たる構造をなすのは、台車とそれに組み込まれる梁。それらは毎年同じものを使い回す。その主構造の外側に、木の枝を曲げて取り付け、カゴ状の外殻を作る。その木は、ナルと呼ばれているものだが、毎回新たに山から採って来る。ナルの入手から山車の組み立てまで、作業は全て住民代表によって行われる。住民代表の大部分は、常会長(町内会長)とその下の班長である。その他、神社総代、区の総代、老人会、婦人会など、総勢70名ほどの人数になる。私も今年は班長なので、参加した。

 お船作りの基本技術は、丸太を接合する番線締めと、直交させたナルを縛るイボ結び(垣根結び)である。イボ結びに関しては、前回参加した5年前に先輩から教えてもらい、その後自宅で繰り返し練習したので、人に教えられるくらいに上達した。今回は番線締めをマスターしたいと思った。

 ネットで調べたら、いろいろ出てきた。動画サイトもあった。イボ結びに比べれば、単純な動作なので、比較的たやすくマスターできそうに感じた。しかし、きちっと締め付けるには、それなりのコツがあるようだ。やはり実地に経験し、繰り返しやらなければ、上達には繋がらないだろう。

 その番線締めに関連して、あるサイトで針金を締めるコツというのが紹介されていた。これは興味をそそられた。

 針金で部材を縛る場合、両端をからめてペンチで捻りあげる上げるのが一般的である。しかし、捻り過ぎると針金は切れてしまう。そのような失敗は、誰でも経験したことがあると思う。捻り切れてしまうのを恐れて、力を加減すると、きちっと締め付けられなかったりする。

 そのサイトで紹介してあった方法は、針金を切ることなく、確実に締め付けられるとの事だった。その原理は、針金は捻りに弱いが、引張りには強いという性質を利用するとのこと。ちゃんと理論的なのだ。これは番線締めにも共通して言える事である。その基本を押えれば、手加減せずに、思う存分締められるのである。

 簡単に言うと、からめた針金をU字型に曲げて倒し、U字の先が針金のラインに直交するように置く。そしてU字の部分を捻るのである。そうすると、直交させた部分が軸となり、それにからみつくようにして針金が巻き上げられていく。こうすると、針金には引っ張り力しか掛からないから、切れずに締められるのである。

 右の画像で、左が捻っただけの縛り、右が巻き上げる縛り。実際にやってみると、締め付け力に大きな差がある。切れることを心配しないで、止るまで締められるからである。

 画像の針金くらいの太さなら、捻り式でもおおむね用が足せるかも知れない。捻じ切れる前に、力加減の感覚で判るからである。ところが極細の針金の場合は、それが難しい。捻りから生じる抵抗が微小で感じにくいため、止めどころが分からず、つい捻り過ぎて切ってしまうのである。しかし、この巻き上げ方式なら、目いっぱい締めても切れることはない。

 日常的な些細な事でも、確かなやり方というものがあるのだ。こういう事を考え付いた人は、学者でもエンジニアでもないだろうが、大したものだと頭が下がる思いがする。





ーーー9/29−−− 10年かかる?


 テレビ番組で、レポーターが職人にインタビューをし、「この仕事で一人前になるには、どれくらいの年月がかかるのですか?」などと聞くと、「最低10年はかかる」という答えが返ってくることが多い。まるで決まり文句のようである。

 だいぶ前だが、中国人のラーメン職人がテレビに出ていた。小麦粉を練った固まりを、両手で引っ張り、折り返してまた引っ張るということを繰り返して、細い麺に仕上げる技法を実演した。若い女性のレポーターが「この技術を身に付けるには、どれくらいかかりますか?」と、お決まりの質問をした。職人は「勘が良い人なら、半年で出来るようになりますよ」と答えた。レポーターが「えーっ、そんなに早くですか?私には無理でしょうね」と言うと、職人は「はい、そうかも知れませんね」と言った。一風変わった問答だったので、記憶に残った。

 10年は長い。一つの技術を習得するのに、それだけの年月がかかると答えるのは、それが大変な事だとアピールするための方策だと勘繰ってしまう。逆に、そんな言い方をする人には、いささかの軽さを感じてしまう。自分に有利な宣伝文句を、無頓着に口にする軽さである。

 スポーツの世界では、小学生から始めて、中学を卒業する頃には全日本クラスの選手になった人もいる。中学からバスケを始め、高校卒業時には全日本のメンバーに入っていた選手もいた。数年間で超一流の選手になったのである。それは特別な才能があったからだと言われるかも知れない。もちろんそうであろう。しかし、到達するレベルが格段に高ければ、いかに才能があったとしても、それなりの時間はかかるはずだ。一万人に一人の才能を持つ人が、一万人に一人のレベルに達するのは、十人に一人の才能が、十人に一人の活躍をするのと、確率は同じである。誰でも、相応しいレベルに達するのに要する年月は、同じようなものではないか。

 他人との関わり、社会との関係の中で目標を達成するのは、それなりの時間を要する。相手があることだし、状況は時々刻々変わるからである。それに対して、自分の努力で完結する行為ならば、成果は意外と近い所にあると思う。例えて言えば、ラーメン屋を繁盛させるのは難しいが、ラーメンの麺を延ばすのは、半年で出来るという事だ。技能や技術に関する事なら、どんな事でも簡単に成就すると言っているのではない。まじめに努力を重ねれば、悲観的になって絶望するほど、ゴールは遠く無いという事である。

 さて、私ならどう答えるか。ひとことで何年などと言うことは無いだろう。とりあえず個別的な説明をし、「私は、これこれの過程を経て、○年かかりました」と述べるくらいか。


  



→Topへもどる